わのわなばなし どうやったら 仏様になれるん?

少年教化の目的の一つに一人一人の子どもにとって活きた仏法を伝えていくことが挙げられると思いますが、実際どのように伝えていくか思い悩む指導者は多いのではないでしょうか。私自身もその一人ですが、 ある指導者研修会で、「子ども達に法話を する時には、子どもだからと言って、オブラートにつつんだような話ではなく、ご法義を直接的に伝えるよう話をすることが大切である」という話を聞きました。それは、得てして子どもだから理解できないのではないかという先入観の中で法話をしがちであるが、存外子ども達はご法義の話を理解できるのであって、少年期にそういうご縁を努めて結んでいくことが大切であるという趣旨でした。この講義後、実際にご法義へ重心を置いた法話を心掛けましたが、本当にこれでいいのか、もう少し道徳に寄せた話の方が、伝わるのではないかと思うこともしばしばでした。
しかし、ある時子ども会の中で、有限な 私たちの命に対して仏さまは「無量寿」という尽きることがない「いのち」という法話をすると、ある子どもが限りないいのちということに関心を向けてくれたようで
「どうやったら仏様になれるん?」という予想外の質問をしてくれたのです。少々、子どもには理解しがたいと思える話でも、その内容をしっかりと受け止め、そしてさらにその時に感じた疑問を投げ掛けてくれ たのです。
 大学時代、自分自身真宗学を学ぶことに対して意欲を持てなかった時期があり、その時、恩師の一言が大きな転換点となりました。「君たちが真宗学を学んでいてなぜつまらないと感じるのか、それは疑問がな いからだ」という言葉です。それは自分にとっての金言でした。疑問というのは単なる言葉の意味に留まらず「自己にとって」という視点を伴った疑問です。客観的ではなく主体的な問があってこそ、自らの上に活きた学びとなってくるということを伝えて下さったのでしょう。これは、法を伝えていく上においても重要な視点ではないで しょうか。子どもに主体的な疑問を持って もらうという点を意識していくことで、より少年教化活動の理念に適った法話となっていくように思います。それはなかなか容易なことではありませんが、子どもにとっての仏縁をよりよいものにしていく心掛け を大切にしていきたいと感じます。

(志和組照榮寺 井口英隆)

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